「ちゃんと寝てます」が口ぐせになっていませんか
会議室で、向かいに座った同僚が舟をこいでいた。
こちらが話している最中に、首がガクンと落ちる。本人はハッとして背筋を伸ばすのだけれど、三分後にはまた同じことをやっている。あとで「昨日、何時に寝たの」と聞いたら、返ってきたのは「いや、ちゃんと寝てますよ。十二時には布団入ってるんで」だった。
たぶん、嘘ではない。本人の中では本当に「ちゃんと寝ている」のだと思う。
ただ、この「ちゃんと寝てます」という感覚ほど当てにならないものはない。足りていない状態が何週間も続くと、人はその状態を基準にしてしまう。しんどいのが普通になるから、しんどいと気づけない。残高を見ずにカードを切り続けているようなもので、請求書が来るまで誰も焦らない。
睡眠の世界では、この積み重なった不足を「睡眠負債」と呼ぶ。負債という言い方が絶妙で、一日徹夜したくらいの派手な借金ではなく、毎晩三十分ずつ足りない、みたいな地味な借り方をする。地味だから気づかない。気づかないまま増えていく。
しかも、いくら借りているかは人によって違う。七時間で足りる人もいれば、八時間半ないと回らない人もいる。世間の平均値を自分に当てはめて「六時間で足りるはず」と思い込んでいる場合、その思い込みぶんがそのまま負債になる。
自分がどれくらい借りているのか、簡単な目安がある。
午前中、それも始業から二時間くらいの、本来なら頭が一番動く時間帯に強い眠気が来る。休日に、平日の起床時間より二時間以上長く寝てしまう。布団に入って五分以内に、気絶するように寝落ちする。電車や会議で、気づいたらガクッといっている。
このうちひとつでも心当たりがあるなら、たぶん借りている。
ひとつ目がわかりやすい。昼食後に眠くなるのは誰にでもある生理現象だけれど、午前十時に机で船をこぐのは、そういう話とは別だ。本来なら一日でいちばん冴えている時間帯に落ちてくるということは、夜のぶんが足りていない可能性が高い。
三つ目は誤解されやすくて、「寝つきがいい」と自慢する人が意外といる。けれど、頭が枕についた瞬間に落ちるのは、寝つきがいいというより、限界に近いという合図に近い。本来は十分から二十分くらいかけて、ゆっくり落ちていくものらしい。布団に入って三十分眠れないのも困るが、五秒で落ちるのもそれはそれで極端だ。
四つ目の「気づいたら寝落ちしている」も、地味に危ない。数秒から十数秒だけ意識が飛ぶことがあって、本人には寝た自覚がない。会議室なら気まずいだけで済むが、これがハンドルを握っているときに起きると笑い話にならない。夕方の運転でヒヤッとしたことがある人は、思い当たるふしがあるかもしれない。
二つ目の「休日に長く寝る」は、次の章で詳しく書く。ここがいちばん誤解されている。
冒頭の同僚に四つとも読み上げたら、全部に手を挙げた。そして「え、これ全員そうじゃないんですか」と真顔で言った。そういう感覚の狂い方をする。
週末に寝だめしても、帳尻は合わない
やっかいなのは、睡眠負債には自覚症状らしい自覚症状がないところだ。
徹夜明けなら誰でもわかる。頭が痛いし、目はしょぼしょぼするし、周りにも「顔色悪いよ」と言われる。ところが毎晩少しずつの不足は、そういう派手な看板を出してくれない。かわりに本人が「慣れた」と思い込む。自分は睡眠時間が短くても平気な体質なんだ、と納得してしまう人までいる。
この「慣れた」が曲者で、実際には慣れているわけではないらしい。パフォーマンスは落ちたままなのに、落ちていることを測る物差しのほうが一緒に鈍っていく。だから本人の主観だけは平常運転に見える。二日酔いで運転している人が「全然いけます」と言うのに、なんとなく似ている。
では土日に思いきり寝れば返せるのかというと、そう都合よくはいかない。
寝だめは、たしかに多少は効く。ただし、平日五日ぶんの不足を日曜の昼まで寝ることで完済できるかというと、そこまで気前のいい仕組みではないようだ。しかも休日に昼まで寝ると、その日の夜に眠くならない。ベッドに入っても目が冴えて、結局スマホを触って一時に就寝。月曜の朝は当然つらい。返済したつもりが、翌週ぶんの借金をその場で追加している。
体内時計の側から見ると、もっとはっきりする。土日に二時間長く寝れば、体は飛行機で移動したのと近い状態になる。海外に飛んでもいないのに時差ボケをつくって、月曜の朝に無理やり戻す。これを毎週、年に五十回くり返す。うまくいくはずがない。
月曜がとりわけしんどい人は、根性が足りないわけではなくて、多分これをやっている。
土曜の朝に一度目が覚めて、「今日は予定ないしな」と二度寝に入る。起きたら十一時半。昼と夜を兼ねたような食事をとって、夕方にようやくエンジンがかかり、夜はなぜか冴えている。日曜も同じことをくり返して、日曜の夜に「明日から本気出す」と思いながら眠れない。書いていて自分でも耳が痛いが、たいていこの流れではないだろうか。
もし土日も平日プラス一時間くらいで起きられるなら、そのほうが月曜は軽い。長く寝るより、起きる時間をあまりずらさないほうが体は楽をする。とはいえ休日の朝に強制力はないので、これはこれで難しい。
睡眠負債が積み上がったままだと、集中が続かない、判断に時間がかかる、いつもなら流せることにイラッとする、といった変化が出てくると言われている。全部、仕事でいちばん困るやつだ。会議で寝落ちするのは目立つから本人も気づくけれど、判断が二割鈍っているのは誰も指摘してくれない。メールの返信が雑になっていることにも、たぶん自分では気づけない。
そして一番こわいのは、こちらの感覚では「まあまあ元気」だという点だと思う。
昼に十五分だけ、返済にあてる
とはいえ、明日から毎晩一時間早く寝られるなら苦労はしない。仕事の終わる時間は自分で決められないし、寝る前のスマホもそう簡単には手放せない。夜を立て直すのは、正論ではあっても即効性がない。
現実的なのは、昼に少しだけ返すことだ。
短い昼寝のことを「パワーナップ」と呼ぶ。十五分から二十分くらいの仮眠で、夜の睡眠の代わりにはならないけれど、午後の入り方はずいぶん変わる。少なくとも、机に向かって三十分ぼんやりしているよりは、十五分寝てから戻ったほうが早い。海外の企業が仮眠スペースをつくっているのも、福利厚生というより計算が合うからだと思う。
やってみるとわかるが、これには少しコツがいる。
寝る前にコーヒーを飲んでおく。 眠くなる前にカフェイン、というのは順番が逆に見えるけれど、カフェインが効きはじめるのは飲んでから三十分ほど経ってからだと言われている。飲んですぐ横になれば、ちょうど起きたい頃に立ち上がってくる。目覚ましと、体の中から起こしてくれるものの二段構えになる。熱いまま飲むと時間がかかるので、アイスにするか少し冷ましておくといい。
二十分を超えない。 ここが一番大事なところで、それ以上寝ると深い眠りに入ってしまう。深いところから引き上げられると、起きたあと三十分くらい頭が動かない。昼寝して余計にだるくなった経験がある人は、たいてい寝すぎている。タイマーは必ずかける。「ちょっとだけ」は必ず一時間になる。
完全に横にならない。 ソファやベッドに寝転ぶと、体が「夜だ」と判断して本気で眠りにいく。椅子を少し倒した姿勢か、机に突っ伏すくらいがちょうどいい。浅いところで止めておくために、あえて万全ではない体勢をとる。
場所は、意外となんとかなる。自席で突っ伏せるならそれが一番早いし、人目が気になるなら車の中でもいい。休憩スペースの隅、非常階段の踊り場、昼どきを外したカフェの奥の席。実際にやってみると、十五分静かにしていられる場所は思っているより見つかる。うちの会社でいちばん昼寝がうまいのは、毎日きっちり車に戻っている営業の先輩だった。
起きられるかどうかを不安に思う人もいるけれど、この長さならだいたい起きられる。むしろ最初の数回は、緊張して眠れないまま十五分が終わることのほうが多い。それでも構わない。目を閉じて視覚からの情報を切るだけで、戻ったときの感じは少し違う。
もうひとつ、眠れるかどうかは環境でだいぶ変わる。オフィスの昼休みは電気がついていて、隣で誰かが電話をしている。この状態で目を閉じても、なかなか沈んでいかない。光と音を減らすだけで入りやすくなるので、アイマスクと耳栓を引き出しに入れておくと現実的だ。道具に頼るのは横着ではなく、条件をそろえる話だと思っている。
昼休みの残り十五分が現実的な線だと思う。弁当を食べたあと、スマホを見ている時間をそのまま置き換えるだけでいい。眠れなくても、目を閉じて静かにしているだけで悪くない。無理に眠ろうとすると逆に目が冴えるので、寝られたら得くらいの気持ちで構えておく。
最初のうちは、昼間に寝ることへの後ろめたさのほうが強いかもしれない。仕事中に寝るなんて、と思う気持ちはよくわかる。ただ、午後ずっと使いものにならない頭で机に向かっているのと、十五分寝てから残りを片づけるのと、どちらが誠実かというと、なかなか微妙なところではないだろうか。
冒頭の同僚は、あれから昼に寝るようになった。最初の一週間は「全然眠れない」とぼやいていたが、そのうち慣れたらしい。会議で寝落ちする回数は目に見えて減った。本人いわく「夕方の粘りが違う」。
負債は一日では返せない。何日か、人によっては何週間かかかる。夜の時間を少しずつ戻していくのが本筋で、昼の十五分はあくまで利息を払っているようなものだ。
それでも、返す方向に動きはじめたかどうかは、自分でもわりとすぐわかる。まずは明日の昼休み、スマホを置いて目を閉じるところからでいいと思う。





